黄河文明(黄河文明・長江文明から、春秋戦国・秦・漢・南北朝時代までについての情報です。)
黄河文明 |
●あらまし(周から春秋戦国を経て秦へ) 周の政治は主に王の家族・一族をもって、地方を治める者とした(封建制)。その後、周の力が衰え東に遷都すると、各地を治めていた一族などが尊王攘夷を掲げて周王を補佐する事を名目に、独自に各地で力をつけていった。春秋時代の始まりである。数百あった集団は次第に春秋の五覇と呼ばれる有力集団などに統一されていった。春秋時代ではそれらの有力集団は王とは名乗らなかったが、戦国時代になると、各地の有力者(戦国の七雄など)は一諸侯に成り下がった周王を差し置いて、自らが「王」と名乗るようになった。また、この春秋戦国時代には各地で覇権を争うための戦乱が続き、人々はどのように生きればよいのか、国をどのように治めればよいのかと言う疑問が生じた。そしてそれに答えるためのいろいろな考え方が生まれた。それらの学者・学派は後に「諸子百家」と呼ばれた。周(東周)は一諸侯になったが春秋戦国時代を通し存続して、その後秦に滅ぼされた。 ●あらまし(秦と漢・三国時代) 春秋戦国時代を通して存続していた戦国の七雄の一つである秦の王である政が統一し、王ではなく皇帝を名乗った。初めての皇帝なので始皇帝である。始皇帝はいろいろな制度を改革した。地域で異なっていた文字や度量衡、貨幣の統一や各地域を分割しそれぞれ官僚を派遣して治めさせる郡県制などである。初期の万里の長城も建築し、焚書坑儒も行った。始皇帝の死後各地で反乱が起こり、項羽などが挙兵し秦は滅びた。 秦滅亡後に劉邦と項羽とが争って、劉邦が勝利し漢王朝の初代皇帝の高祖となった。漢は官僚による直接支配する郡県制と、諸侯を王に封じて任せる封建制の両者の良いとこ取りの「郡国制」を引いた。さらにその外にも外藩国という関係(冊封体制)を作った。その後各地の王が力をつけ、独立を求めて反乱を起こした(呉楚七国の乱)が鎮圧されて、王の力はより小さいものへと削減された。その後漢は「新」という王朝に滅ぼされる。新は1代で滅び、漢(後漢)が成立した。後漢はそれほど力が強くなく、以降は曹操や劉備、孫権らが覇権を争う三国時代になっていく。三国の一つの魏に後漢の皇帝の位が禅譲されて、後漢は滅びた。その後魏・呉・蜀の3国がそれぞれ同時期に皇帝を名乗った。 ●あらまし(魏・晋・五胡十六国・南北朝時代) 蜀を滅ぼした魏の家来であった司馬炎が魏の中で力をつけ、呉を滅ぼし統一し新しい王朝である晋の初代皇帝である武帝となったが、すぐに勢力を失い、北方からのいくつもの部族・民族(五胡)の進入もあって混乱した。北部では北魏が統一したがやがて分裂し、1つの勢力にまとまらず、いろいろな王朝が成立した。おおむね南北で別々に王朝が交代していった。三国時代から南北朝時代にかけて戦乱が長期間にわたって起こり、人口が激減した。また、西方から伝わった仏教が五胡十六国・南北朝時代に広まっていった。その後隋が中国を統一する。 | まとめ 殷…甲骨文字・漢字へと 青銅器文明 周 春秋時代…周王をたてて尊王攘夷 戦国時代…社会は混乱し、人間はどう生きるべきかと言う疑問に対し、いろいろな思想家が出現した。 秦…始皇帝 漢…劉邦 司馬遷…前漢 蔡倫…後漢 紙により史記もコンパクトになった。 黄巾の乱 三国時代…赤壁の戦いなど 五胡十六国時代 南北朝時代 隋による統一 |
課題: 故事成語から1つを選び、どの時代のどのような出来事からできた言葉なのかを調べてみましょう。(出典の成立した時代も調べてみましょう。) |
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