テーマ 神聖ローマ帝国・オーストリア・プロイセン(1450〜1750程度)(神聖ローマ帝国・墺・普(1450〜1750程度)についてのまとめと用語などです。)
神聖ローマ帝国・オーストリア・プロイセン(1450〜1750程度) |
あらまし 三十年戦争をはじめとするいろいろな戦争は、宗教的な対立というよりも、国家間の欧州における覇権争いになっていく。三十年戦争の戦場となったドイツ地域は発展が妨げられ、英仏に遅れを取る事となるが、プロイセンが台頭してくる。 |
まとめ イタリア戦争 ハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン・カール5世)とヴァロワ家(フランス・フランソワ1世)がイタリアを巡って繰り広げた戦争(1521−1544)。教皇・皇帝の力が弱まり、主権国家という新しい枠組みが形成されてきた。ハプスブルグ家は巧みな婚姻政策を用いた。フランスもオスマン帝国と密約を結んだりドイツのプロテスタント諸侯を応援したりした。イタリアはローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノ、ナポリなどこま切れにされて各勢力に統治された。 16Cはじめ ハンガリーの一部をオスマン帝国に奪われる。ウイーンも包囲される。 カール5世はカトリックでありルター派を禁止。が策略のため認めたりもした。 1555 アウスブルグの和議。宗教対立の一応の解決。ルター派が公認されるが、諸侯は両派に分かれて宗教対立が続いた。 1618 30年戦争 プロテスタントが、ハプスブルグ家の宗教政策に対して攻撃し戦争が始まった。デンマークやスウェーデン、フランスも参戦し、各国の覇権を争う戦いに発展した。ドイツ地域は破壊や略奪がなされた。 ウエストファリア条約(1648)…この条約により、各領邦(プロシアなど)が独立し強力になったため、ハプスブルグ家と神聖ローマ帝国の力は格段に弱まった。フランスはアルザス地方を手に入れ強力になった。オランダとスイスの独立が承認された。 プロイセン プロイセン(プロシア)は1618にできた領邦であったが、スペイン継承戦争以降王国となった(1701設立)。スペイン継承戦争ではドイツ地域も戦場になった。フリードリッヒ・ヴィルヘルム2世が1740年に即位し、官僚制や軍隊を整えて国家としての基盤を作った。フリードリヒ2世はサンスーシ宮殿を建設。同時期に啓蒙家ヴォルテールがプロイセンを訪問した。フリードリヒ2世はオーストリア継承戦争、七年戦争を戦って、プロイセンの領土を拡大した。 オーストリア継承戦争…マリア・テレジアが1740年にオーストリアの王になった事に周辺国が口を挟んだ事で勃発。ドイツ地域も戦場に。フランス(ブルボン家)+プロイセン(フリードリヒ2世)とオーストリア(ハプスブルグ家)の戦い。平行してジョージ王戦争。 七年戦争…オーストリア継承戦争に敗れたオーストリア(マリア・テレジア)はこれまでの宿敵であるフランスのブルボン家と同盟を結んだ(外交革命)。そしてオーストリア継承戦争の仕返しとして七年戦争をプロイセンに仕掛けた。イギリスはフランスと対抗したまま(つまりプロイセン側)。平行してフレンチ・インディアン戦争やプラッシーの戦い。パリ条約。 ポーランド分割…2,3回目はフランス革命中に起こったので、他の国はそちらに手が掛かり口出しできなかった(分割国は混乱に乗じた)。 以降プロイセン王国によるドイツ統一へ。 |
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