西欧とビザンツ帝国(中世ヨーロッパについての情報です。)
西欧とビザンツ帝国 |
ビザンツ帝国のあらまし 395年にローマ帝国が分裂し西ローマ帝国と東ローマ帝国に分かれた。西ローマ帝国はすぐに滅亡した。東ローマ帝国(ビザンツ帝国・ビザンツィン帝国)は、公用語がラテン語からギリシア語に代わり、この地域の教会である東方正教会はローマ教皇のローマカトリック教会と対立した。イスラム勢力などの進行で弱体化しつつ1453年に首都のコンスタンチノープルが陥落して滅亡した。 西欧のあらまし 農業生産量の増大により、余った食料の売り買いが進み、商業や都市が発展した。為政者は以前のローマ帝国のような強力な支配者ではなく、各地に小規模な諸侯が各々の土地(荘園)と領民(農奴)を支配していた。その諸侯の中から王が選ばれたりした。キリスト教最高権威のローマ教皇と王は互いに利用しあったり、反目したりした。ローマ教皇・諸侯・騎士・都市商人などの思惑で十字軍の遠征を行ったが、予定した成果は挙げられなかった。戦費調達のためローマ教皇が免罪符を販売する事に異を唱える者が出たりもしてローマ教皇の権威は低下した。十字軍により商人は貿易や武器の販売で利益を得たが、諸侯・騎士は資金を使い果たし没落する者も出た。その没落で諸侯らの領民支配が弱まり、さらに黒死病の流行もあり荘園支配は衰退した。また、十字軍により、ギリシア古代文化を受け継いだイスラム文化が西欧にもたらされ、さらにビザンツ帝国滅亡によるギリシア知識人の西欧への移動により、都市住民によるルネサンスへとつながっていった。 |
各できごと・人物のまとめ フランク王国 クローヴィス1世…ゲルマン人。カトリックに改宗。メロヴィング朝フランク王国を開く(在位481年 - 511年) カール・マルテル…メロヴィング朝フランク王国の宮宰。イスラム教徒(ウマイヤ朝)の侵入を食い止める ピピン3世…カールマルテルの子。メロヴィング朝を廃してカロリング朝を開く。フランク王国の国王(在位:751年~768年) カール大帝…ピピン3世の子。フランク王国の国王(在位 768年 - 814年)。800年にローマ教皇からローマ帝国の皇帝の称号を受ける(ゲルマン・ローマ・キリスト教の一体化)。 ヴェルダン条約…フランク王国は3つに分割して相続され、いまのフランス・イタリア・ドイツの元になった(843)。その後、西フランク王国は911年にノルマンディー公を封じる(領土を与える代わりに言う事を聞くようにした)。その後フランスでは西フランク王の孫が王に選ばれ、カペー朝が開かれる(987年 - 1328年)。 封建制度 西欧で8~9世紀ごろまでに成立。 中世の農業 大開墾時代(11~13世紀)…三圃制、農機具の発達などによる。(中世の)農業革命とも呼ばれる。→余剰生産物の発生→都市・交易の発達、さらには十字軍などをする余裕も出てきた。 イングランド…ノルマン人の子孫のフランス人であるノルマンディー公ギョーム2世がイギリスを占領してウイリアム1世と名乗る(1066)。ノルマンコンクエストと言われる。 中世の宗教 ローマカトリックと十字軍(1096~1270)→都市は利益を得てさらに発達 教皇の権威の変化 叙任権闘争(世俗の者が世俗の司教を選んだりしていた。)→十字軍で権威が増す(インノケンティウス3世のころ絶頂)→国王も権威が増し十字軍失敗もあり教会の地位は相対的に低下→アナーニ事件などでゆらぐ(1303)→教会の権威が弱まり、王の権威が強まっていく。→絶対王政へ。 中世の都市と商業 ロンバルディア同盟(1167~1250)ハンザ同盟(1241~14世紀後半に最盛期)などは、商業の提携の他、政治軍事てきな力も持ち、ドイツイタリア地域は、商人の力が比較的強かったと見る事ができる。 十字軍などにスポンサーとして参加し利益を得てさらに発展した。 貨幣経済の発展により税を支払い方法も変わった(実働から作物さらに貨幣へ)。農奴制。黒死病もあいまって荘園制・封建制の崩壊。大砲などの出現による騎士の地位低下。ヨーマンの出現。 ドイツとハプスブルグ家(1273~) 英仏の成立 100年戦争で英仏が成立してきた。(1337~1453) コンスタンチノープルの陥落(1453) レコンキスタ(~1492) 中世の文化 ラテン語文化圏とギリシア語文化圏 ロマネスク建築 スコラ学 ゴシック建築(12世紀後半~) ビザンティン文化 ビザンティン美術 ビザンティン建築 |
課題: ローマ教皇と王が協力し合った例を調べてみましょう。またローマ教皇と王が対立しあった例を調べてみましょう。 |