テーマ イングランド(1450~1750程度)(イングランド(1450~1750程度)についてのまとめと用語などです。)
イングランド(1450~1750程度) |
あらまし 百年戦争では、諸侯などが王様の下にまとまってフランスと戦い、しだいに英国が成立していった。百年戦争・ばら戦争を通し貴族・騎士は没落していき、王の力が強まった。その王を抑えるのが貴族や騎士ではなく、議会であり、王と議会とが対立していく構図になっていった(議会にも貴族院があり貴族はいる)。 ばら戦争(イングランド内の内戦)で貴族がさらに没落。議会の貴族院は貴族全員が出席資格を有するのだが出席者が少なくなった。その後、王から貴族の資格を与えられたりした人が出て出席者は増えた。 |
まとめ…ばら戦争後から各王様で解説(一時期共和制)
ヘンリー7世(在位1485~1509) ランカスター家とヨーク家を統一(1486)し、ばら戦争終結。敗者から奪った土地を臣下に与える。ポルトガル・スペインに刺激され、探検家カボットを支援。 ヘンリー8世(在位1509~47)…7世の子 王自身の離婚問題で旧教から離脱。英国国教会を設立。同時期に啓蒙家のトマスモアが活躍。 エドワード6世(47~53)…8世の子 メアリ1世(53~58)…8世の子 スペイン王フェリペ2世と婚姻して英国をカトリックに戻そうとした。 エリザベス1世(在位1558~1603)…8世の子 英国国教会支援、毛織物産業の保護・育成、東インド会社の設立、スペインの無敵艦隊をを破る(アルマダ海戦)、シェークスピアが同じ時期に活躍し英国ルネサンス最盛期。(なお、エリザベス1世とフェリペ2世の在位期がほぼ同じ。) ジェームズ1世(1603~25)…スコットランド系(ステュアート朝)でヘンリ7世のひ孫でもある。スコットランド王のジェームズ6世(在位1567~1625)と同じ人。1歳でスコットランド王に即位。 イングランドのステュアート朝の王様として最初の人。ここから先はイングランドとスコットランドの王が同じ人が兼ねる。王権神授説を唱えた。カトリックとピューリタン(清教徒)の領邦を排除したので多くのピューリタンが米に渡った。 奥さんのアンが浪費家。 チャールズ1世(1625~49)…ジェームズ1世の子 王権神授説を唱えた。しぶしぶ議会を開いたのだが、反対派の議員を不当に逮捕しようとしたことからピューリタン革命(国王派(王党派)と議会派の内戦)が起こり、ついに囚われた。議会派の勝利に終わりチャールズ1世は斬首された。 共和制(コモンウェルス)(49~60) 内戦に勝利した議会派のクロムウェルが権力を握り、王党派の多いアイルランドなどを弾圧する。護国卿と言う身分で独裁政治を行った。(隣国のルイ14世に影響されたと言う事も考えられるのでしょうか?) 貿易をめぐりオランダと争い、航海法を制定して第1次英蘭戦争が起こった。 クロムウェルの子も少しの期間だけ護国卿に即位していた。 チャールズ2世(60~85)…チャールズ1世の子 ピューリタン革命の時は亡命生活。 第2次英蘭戦争(65~67) カトリックでピューリタンを弾圧した。 審査法・人身保護法…議会の要求により制定(この王様ではまずいなと言う事で。) ジェームズ2世(85~88)…チャールズ2世の弟・チャールズ1世の子 カトリック教徒でカトリックを復活させようと議会と対立。専制を行う。 そのため名誉革命が起こる(88~89)。派遣した軍隊が新しい王の方についたため、フランスに亡命した。 ウイリアム3世・メアリ2世(1689~1702)メアリ2世はジェームズ2世の子・ウイリアム3世は母がチャールズ1世の子(チャールズ2世とジェームズ2世の姉) オランダ頭領のウィレム(後のウイリアム3世)はメアリ2世と結婚後に、英議会の求めに応じ軍事力を見せ付けて、義理の父であるジェームズ2世を追放した。議会の要求(権利の宣言)を飲む事で夫婦で国王と女王となり、共同して統治した。この一連の交代劇は名誉革命と呼ばれる。オランダとイギリスは協力してフランスに対抗する体制となった。翌年に権利の宣言を「権利章典」として制定。メアリ2世は94年に亡くなった。 アン王女(1702~14)…メアリ2世の妹(ジェームズ2世の子) スペイン継承戦争、ユトレヒト条約 ジョージ1世(14~27)…ジェームズ1世のひ孫。ハノーヴァー朝の王のはじめの人 ドイツ領邦国家の君主(ハノーヴァー侯)であったが、英議会に引っ張ってこられた。英語はあまり話せなせなかった。議会に任せたので議会としては好都合で(それが議会の狙いでもあった)、イギリスの議会制度が確立する事となった。 以降 産業革命・フランスとの植民地覇権争い・米独立戦争へ |
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